by シンシア・ロス(ザ・ビー・ガールズ)
Translated/Text Ayumi Tsubouchi
Thanks! Hiroko Ishikawa
すべてはパンクロックの爆発的なムーヴメントから始まった。これまで演奏したこともないキッズたちがバンドを組み、曲を書いたり、ショウを企画したり。はたまた洋服を作ったり、ファンジンを発行した。デジタルが身近になるまでは、世の中、創造とつながりが主流の時代だった。
ティーンの苦悩に煽られていた私たちは闘っていた。ヒッピーたちはフォークソングやサイケで世界を変えることに失敗。ローリング・ストーンズ、ガレージロック、ガールズグループ、R&B、それからブルースに夢中だった私たちには、その後の世の中はあまりにも退屈すぎた。私たちは今か今かとヴォリュームを上げる用意をしていた。
その舞台にいたのは、ニューヨーク・ドールズ、ストゥージズ、MC5、アリス・クーパー、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドといったバンド。クイーンズ、バワリーから、そして北米の地下室に渡り、ブクブクと新たなシーンが沸き起こっていった。(私の住む)トロントはNYからわりと近い距離にあったし、CBGBやマクサス・カンザス・シティの魅惑的なシーンの中に溶け込みたくて、私たちはしょっちゅう車を飛ばして出かけていった。『PUNK』や『Bomp!』、『Creem』、『NME』、『SOUNDS』、『Rock Scene』といった雑誌が、さっき挙げたような最新のバンドをこぞって取り上げ、インタビューや写真を掲載していたから、言わずもがな、私たちのバイブルとなった。
1977年の初めのこと。シン・リジーのコンサートのあと、フィル・リノットというホテルの中でThe ‘B’ Girls(ザ・ビー・ガールズ)が結成された。バンドを始めることに対して何の知識もないメンバーを見つめながら、私たちはただつっ立っていた。全員女子のバンドをやりたい!!! 長いことずっとそう思っていた私は、その夜、(どのライヴでも見かけていたから知っていた)ルカスタ・ロスにまず声をかけてみた。「バンドを組むってことを考えたことはある?」。すると、彼女の答えはこうだった。「ええ、毎日よ!」。この瞬間から私たちのバンドがスタートした。
ルカスタがバンドに入れたいと懇願したのは、彼女のベストフレンドであるジーニア。で、私は姉妹であるロンダに声をかけてみた。ルカスタは歌を歌えるけど、バンドには楽器を演奏できるメンバーが誰ひとりいなかった! でも、そんなことは問題じゃなかった。私は、自分自身がベースプレイヤーだってことをなんとなくわかっていた。熟練された声の持ち主であるルカスタはヴォーカルとギター。ジーニアはギターとコーラス。ロンダはドラムという感じで、自然とそれぞれのパートが決まった。私たちは早速バンドをやっている男の子たちから楽器を借りて、曲作りと本格的なリハーサルをスタート。私たちは真剣そのものだった。周囲のバンドがみんな私たちをフォローしてくれた。生きがいを見つけた私たちは、ひたすら光を求めた。
1ヵ月も経たないうちに、スラム街にあるClub Davidsというゲイバーで初めてライヴを体験した。それがカナダのトロントでの初めてのショウだった。持ち曲が3曲しかないということはわかっていたから、ライヴでは曲を2回ずつプレイ。自分たちのルーツに忠実で、ほかのバンドよりも目立っていたことから、人々はみんな私たちに注目していた。私たちは、どこにでもいる、親しみやすい女の子たちみたいだった。
ザ・ビー・ガールズは、シャングリラスやクリスタルズに倣ったような、ハーモニーのあるメロディアスでキャッチーな曲をやっていた。楽器を手にして3ヵ月にもしないうちに、私たちは唯一のシングル・レコード「Fun At The Beach/‘B’ Side」をリリース。プロデュースはボブ・セガリニ、発売はBomp!レコードから。噂を聞いていてLAからトロントへやってきた(Bomp!レコードの)グレッグ・ショウがリリースすることに尽力してくれたのだ。
NYCで初めてライヴをしたのは金曜夜のCBGB。忘れもしない77年に襲ったブリザードの最中、マクサス・カンザス・シティでのライヴから降り始めた雪のあとのことだった。ヒリー・クリスタルにこう伝えた。「あなたがザ・ビー・ガールズのライヴをブッキングするまでここを離れない」って。彼はその心意気を気に入ったようだった。それからCBGBGのマンスリー枠を私たちに取ってくれるほど、ヒリーはバンドのことも気に入ってくれた。半年間バンドにいた私の姉妹ロンダがここでバンドを去り、その代わりに新ドラマーとし加入したのがマーシーだった。
ザ・ビー・ガールズは、NYとトロントを行き来しながブロンディ、エルヴィス・コステロ、ロバート・ゴードン、イギー・ポップ、ハートブレイカーズ、ヴォイドイスといったバンドと共演を積み重ねて行った。(デッド・ボーイズの)スティーヴ・ベイターズは私たちの大ファンで、ショウのブッキングやPRなどのサポートしてくれた。少しあとに、ルカスタもバンドを後にした。後任のシンガーを探そうとオーディションをしたものの、結局見つからず、ジーニアがヴォーカル/ギターへ転向。レニーがギターとコーラスを担当した。と同時に、私たちはNYへ移住。78年以降マーシーが脱退してテディがドラマーに転向した81年まで、このラインナップでレコーディングやツアーをこなした。
私たちはレコード会社やマネージャー、プロデューサーから関心の目を集めるようになった。当時は私がバンドをマネージメントしていたけれど、クリエイティヴな部分でコントロール不可能になってしまうことを警戒して、IRSやポリグラムUKからのオファーをすべて断った。IRSがその半年後に契約を結んだのはゴー・ゴーズだった。
その当時、私たちはキャピトル・レコーズからバックアップしてもらい、自作のデモをレコーディングしていた。クリス・スペディングがザ・ビー・ガールズをプロデュースしたがっていたけど、大人の事情で実現することはなかった。
CBGBでデッド・ボーイズやラモーンズの前座を務めた時、フロアにはジョー・ストラマーやミック・ジョーンズの姿があった。彼らはヨーロッパ・ツアーのオープニング・アクトをやってほしいと私たちにオファーしてきた。彼らのドラマーであるトッパー・ヒードンが手首を痛めたことで、そのツアーは結局キャンセル。私たちは悲しみに暮れた。だけど、その埋め合わせとして、トロント、NY、ニュージャージー、ボストン、それからフィラデルフィアでの前座として私たちを起用してくれた。それが、有名な『ロンドン・コーリング・ツアー』だった。1980年のことだった。
当時私たちは、マイキー・ドレッドとリー・ドーシーと一緒に売り出された。カナダでの初期のライヴ前では一緒にアンダートーンズと共演したことも。クラッシュのツアーバスに乗り込み、彼らの楽器を使わせてもらうこともあれば、報酬をいただいたことも! それらはすべてレコード契約もなければ、ツアーへの支援などまったくない状態でのこと。イギリスではスリッツがクラッシュとツアーしていた同時期のことだった。堂々たるジョーとミックが本当にそこにいた。彼らは“男社会”、音楽ビジネス、女性蔑視に反対すべく、第一線で闘いに挑んでいた。
CBGBでも、マクサス・カンザス・シティでも、フレー、ザ・リッツ、ペパーミント・ラウンジ、デトロイトのブッキーズ、LAのウィスキー、トロントのエッジでも、ザ・ビー・ガールズのライヴはいつもソールドアウトの連続。ジョーン・ジェット、ジョニー・サンダースと、スティーヴ・ベイターズやウェイン・クレーマーともステージ上で共演した。ブロンディの『Autoamerican』やスティーヴ・ベイターズのソロ作品『Disconnected』(Bomp!)でバッキング・ヴォーカルを担当したこともあったっけ。フィル・スペクターもまた、私たちのプロデュースをしたがっていた。クレイグ・レオン、デボラ・ハリー、ミック・ジョーンズ、リアム・スタンバーグといった面々も、私たちがスタジオで十分楽曲を制作できると信じてくれていた。
ザ・ビー・ガールズは真のバンドだった! メンバーはみんなお互いのことが好きで、同じ音楽のファンだったからバンドとしての結束力もあった。制限のある中にいても、私たちは常に良い状態であろうと固く決めていた。ずっと自分たちの価値観にこだわりを持っていて、商業的に走ることもなかった。自分たちが自分たちのレコードで演奏するためにオファーを拒否、メジャーレーベルとの契約にサインすることもしなかった。(Bomp!の)グレック・ショウが唯一リリースしてくれたシングル・レコードからちょうど40年経過。私たちは再びBomp!に戻って、バンドとして初めてのLP盤をリリース。それが、『Bad not Evil’』だ。
The ‘B’ Girls
『Bad Not Evil』
Bomp!
BLP4105-1
2,538円(税込価格)
発売中
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